【本】終戦のローレライ―人間の信念が交差する群像劇

【本】終戦のローレライ―人間の信念が交差する群像劇

「終戦のローレライ」は2002年に発表された福井晴敏の長編小説です。文庫版で全4巻(しかも2巻以降はかなり分厚い)という大作で、読み手を選ぶかもしれません。しかし、おもしろさは保証できます。私自身、のんびり読もうと思っていたのに結局徹夜して一気に読みました。続きが気になりすぎて途中でやめられなかったのです。

この小説は「ローレライ」のタイトルで映画化もされています。しかし、これは小説と映画は別物として楽しむべき作品です。小説を読んでから映画を観ると虚無になりかねませんのでご注意ください。映画はAmazonプライム・ビデオなどで観ることができますのでよろしければどうぞ。

「終戦のローレライ」あらすじ

1945年、夏。敗戦への一途をたどるなか、日本海軍はドイツ海軍の潜水艦特殊兵器「ローレライ」を手に入れる。その兵器の正体は、水を媒介して水中の様子を知るという超能力を持つ少女・パウラだった。パウラと彼女が操るローレライ・システムを載せた潜水艦「伊507」は、ひとりの海軍軍人が企てた「国家の切腹」という野望に飲み込まれていく。首都・東京に3発目の原子爆弾が投下されようとするそのとき、たった一隻で南の海へと向かった伊507と乗組員たちを待ち受けているのは、どんな運命なのか?

この物語は、フリッツ少尉なしで語ることはできない

この作品、毎年1度は読み返すほど好きなのですが、映画に関して語る情熱は持てません。なぜなら、映画にはフリッツ・S・エブナー少尉(21歳)が出てこないからです。フリッツ少尉とはパウラの兄でこの小説のキーマンなのですが、映画では幼少のころに命を落としたことになっています。そのため、小説と映画は別物だと割り切って(2回目)、映画では迫力ある潜水艦の描写を楽しむのが1番いいと思います。

フリッツ少尉は、4分の1だけ日本人の血が入ったドイツ人クオーターでありながらナチス親衛隊(SS)の一員を務めるという、濃すぎる経歴の持ち主。しかも背が高く、東洋人の特徴を持つ容姿は整っており、黒髪を切らずに伸ばしているというビジュアルも100点満点のお方です。さらに、他人には冷たいくせにパウラのことだけはものすごく大切に思っている重度のシスコンと、これでもか!といわんばかりの要素が詰め込まれ、私は一瞬で彼のトリコになりました。

原作ではフリッツ少尉の存在が主人公の潜水艦乗務員・折笠征人を完全に食ってしまっているために、映画では省かれたのだと思っています。

↑漫画化されたときにソロで3巻の表紙を飾ったフリッツ。ほんの少し妖怪チックですがこれはこれで愛せる。

フリッツの成長物語として読む

「終戦のローレライ」は群像劇なので、主人公・征人とヒロイン・パウラの関係を中心にしつつも、それぞれの登場人物の物語を楽しむことができます。

たとえば、「伊507」の艦長を務める絹見少佐は、潜水学校で教鞭を執っている元・潜水艦乗りです。しかし彼は、亡くなった弟の亡霊に苦しめられていました。絹見少佐の弟は戦争に否定的な意見を持ち、自ら命を絶ったのです。そのため、絹見少佐自身も教鞭を執りながらも軍国主義の教育に頭までどっぷりと浸かることができず、葛藤しています。

掌砲長を務める田口兵曹長は、こわもてで若い兵士たちから恐れられている存在です。過去には補給の断たれた南方の島で飢えにあえぎ、人の道から外れる行いをして生き延びたという経歴を持ち、自らに押した烙印に苦しんでいます。

そして、フリッツと並ぶもうひとりのキーマンが「日本という国家を切腹させる」と豪語してはばからない浅倉大佐です。彼は日本を生まれ変わらせるため、という自らの意思のもと、アメリカに3発目の原子爆弾を東京に落とすよう要請したのです。

「伊507」に関わる人々は、それぞれに重苦しい過去を抱え、それぞれの信念を腹に秘めています。

とはいっても私はフリッツ少尉が大好きので、この本をフリッツの物語として読んでいます。東洋人の容姿を持って戦前のドイツに生まれ、人種差別を是とする優生学が広まっていくなかで差別を受ける日々。肉親を亡くし、兄妹で人種改造実験を行う「白い家」に入れられ、人体実験でパウラが特殊な力に目覚めてからは、パウラとともに生きるためにSSに取り入ります。

フリッツは基本的に単純でまっすぐな性格なんですが、自分を異物として排除したがっている祖国で生き延びるために仮面をかぶり、「黄色いSS」と揶揄されるまでに、ナチスドイツの思想に「染まっているように見せる」のです。

「恐怖を克服するには、自分自身が恐怖になるしかない」

これが、パウラとたった2人、仲間も味方もいない祖国で生きるためにフリッツが出した答えでした。当時まだ20歳にもならない若者が導き出した、あまりにも孤独な決意。しかし彼は、「伊507」に乗艦することによって初めて4分の1の祖国・日本で生きてきた人々とふれあい、変化していきます。

SSの真っ黒な制服に身を包んでいた彼が、やがてドクロの徽章がついた帽子と上着を脱ぎ去り、ワイシャツのボタンをあけて本心で会話をするようになっていく。「伊507」が浅倉大佐一味の管制下におかれたとき、先陣を切って行動を開始したフリッツの「おれたちの艦を取り戻すぞ」というセリフは、この作品で1番カッコイイ名セリフです。

自分という存在の儚さを自覚する、誰よりも強い21歳

SSの技術をひととおり仕込まれ、銃器の扱いにも武術にも長けたフリッツ。妹のパウラはつねにフリッツに守られ、彼がいなければ生きていけないようにも思われます。しかし、真実はまったく逆で、パウラがいなければフリッツは生き延びることすらできなかったんですよね。ナチスドイツがほしいのは、パウラの能力だけなのですから。口には出さなくとも、フリッツ本人もそれを十分自覚しているのが、また切ないのです。

フリッツには「自分にはパウラしかいないし、パウラにも自分しかいない」という思いがありました。しかし、征人がパウラとほんのちょっと特別な関係になってからは、パウラを1番近くで支えるのは征人の役目になり、フリッツは初めて自分のために生き始めます。「伊507」が最終目的地と定めたテニアン島へ行き、連合艦隊と戦って原爆投下の阻止という目標を成し遂げるまでの十数時間の間だけ。

その道中でフリッツは、田口掌砲長に自らの名前にある「S」が「シンヤ」という日本名であることを明かします。

ここは終戦のローレライで好きなシーンのひとつです。そして、フリッツがおそらく身内以外の人間に初めてその名前を呼ばれた瞬間、彼と読み手との距離がぐっと近くなるんですよね。肌のにおいや息づかいが感じられるほどに。

ここが、妹ありきでこの世に存在していた彼がひとりの人間として生まれた瞬間であるといっても大げさじゃないと思います。

「伊507」に乗り合わせた濃すぎる人々

私はフリッツが好きすぎるので読み始めるとフリッツのことばかり考えてしまい、ほかがおろそかになりがちなんですが、「終戦のローレライ」は登場人物一人ひとりの描写の濃さが半端ではありません。

冴えない中年男とかと思いきや大胆な発想でピンチをくぐり抜ける絹見艦長、ノーテンキなおじさんと見せかけて熱い時岡軍医、そして重い過去を引きずりながら最後の最後で進むべき道を見いだした田口掌砲長

アメリカと取引をして東京に3発目の原子爆弾を落とそうとした浅倉大佐も、この目的だけ見ればただの狂人に見えるでしょう。「東京を壊滅させる」ということは「天皇の存在を消し去る」という意味でもあります。しかし、彼がなぜそんな考えに至ったかが詳細かつ臨場感をもって描かれているため、その意思を頭ごなしに否定できなくなってくるのです。

彼の考えは、「日本の未来の姿」を知る身として、少なからず共感できる部分があるのもまた事実です。

さらには終戦間際の日本の閉塞感、潜水艦同士の因縁バトル、史実にからめたナチスドイツの描写など、この作品の魅力は枚挙にいとまがありません。

骨太の戦記物語を読みたい人、熱く生きる男たちの生きざまにふれたい人などにもおすすめできる作品です。