【映画】「検察側の罪人」―内なる正義と悪を飼い慣らせ※ネタバレあり

【映画】「検察側の罪人」―内なる正義と悪を飼い慣らせ※ネタバレあり

検察側の罪人を観てきました。ネタバレしていますのでお気をつけください。

法律の力を思い知る

「真実を追究する」とか「法は弱者を守るためにある」という文句は、法だとか犯罪だとかを扱う作品ではわりと常套句だと思う。名探偵コナンも「真実はいつもひとつ!」と言っている。この映画で真実の追究役を担当するのは沖野検事なのだけれど、「真実」ということばがなんと虚しく響くのだろう。

この映画で、というか最上検事にとって法律は鋭い矛だ。さらに、よくある言い方をすれば諸刃の剣。彼は法律の持つ力がいかに強大なものかを知り尽くしている。それは被害者を守る力ではなく、権力としての強さだ。

法律は人が決めたもの。ということは、罪とは人の手によって定義され、作り出されたものなのか?という疑問が生まれてくる。逆に、法律は罪から罪という定義を外し、ただの事象とすることもできる。最上検事がこのシステムにどれほど憤懣の思いを抱えているか。スクリーンから伝わってくる執念がものすごい。

むごたらしく由季を殺した人間を、法律という矛で刺し貫くことこそに意義がある。

最上が実行したことが明るみに出たら、きっと新聞の見出しには「暴走」「狂気」「あわれ」といった見出しが躍るのだろう。しかし、彼の正義と罪はそんな場所にはない。最上検事が下した決断と実行、それを木村拓哉はありありと見せてくれた。全身で「否」と叫ぶ肉体を押さえつけ、ひとり暗闇を進む姿に鳥肌が立った。

同時に、崖に追い込まれたときにあがいてあがいて落ちるのではなく、いっそ跳躍して空に躍り出るような鮮やかさもあった。

真実を求めあっさりと矛を捨てた沖野検事。しかし、最上検事は真実を必要としていない。彼にあるのは現実だけ。最上は沖野に、法曹でありながら法律に絶望した過去の自分を見ていたのだと思う。沖野に憤りと羨望を感じているのだな、と思わせるラストシーンだった。

ぐうの音も出ないキャスト陣

全編通してキャストの演技に引き込まれた2時間。キャスティングについていろいろと言われているのはチラ見したけれど、「アリ」どころか「これしかない」のでは。最上と沖野、対極であり、また同質でもある二人が揃うときの不思議な空気といい、切り取り方の演出といい、一組の阿と吽のような、まったく違う楽器の音を合わせたら旋律になるような、そんな心地よいハマりぐあい。

木村拓哉の演技は「僕だけの女神」から見てきたけれど、ここまで骨がきしむような演技をこのときに見せてくれてありがとうと言いたい。

あと最上検事の奥さんが「いる!こういう人!いるいる!」って感じですごいツボだった。

要素が多すぎて消化しきれない部分も

惜しいなあと感じたのは、白骨街道から親友の議員の自殺、反戦への思いにいたるまでのルート。詰め込みすぎの感もあったし、もう少し描きようがあったのでは?このへんは原作を読んでみないとわからないかな、とも思う。原作ではどうなってるんだろう?

基本データ

検察側の罪人
監督・脚本:原田眞人
原作:雫井脩介
劇場公開日:2018年8月24日