【Amazonプライム・ビデオ】「湯を沸かすほどの熱い愛」―みんな、おかあちゃんが大好き※ネタバレあり
「湯を沸かすほどの熱い愛」は、2017年の第40回日本アカデミー賞で数々の賞にノミネートされ、さらに宮沢りえが最優秀主演女優賞、杉咲花が最優秀助演女優賞に輝いた大ヒット映画です。
この記事では、今や数多くの映画に引っ張りだこの杉咲花の出世作でもあるこの作品について綴ります。ネタバレ記事ですのでお気をつけください。
あらすじ
銭湯・幸の湯を営む幸野家だったが、1年前、父・一浩(オダギリ ジョー)がふらっと出奔してから休業していた。母・双葉(宮沢りえ)は持ち前の明るさと強さで、パートをしながら娘・安澄(杉咲花)を育てている。ある日、双葉は余命わずかという宣告を受ける。それから双葉は、“絶対にやっておくべきこと”を決め、実行していく。それは、家出した夫を連れ帰り家業の銭湯を再開させる、気が優しすぎる娘を独り立ちさせる、娘をある人に会わせる、というものだった。双葉の行動によって、家族の秘密はなくなり、彼らはぶつかり合いながらもより強い絆で結びついていく。そして家族は、究極の愛を込めて母・双葉を送ることを決意する。
出展:Movie Walker
母として観るか、娘として観るか
この映画は、宮沢りえ演じる母・双葉の立場で観るのと、杉咲花演じる娘・安澄の立場で観るのとでは少し印象が変わります。
母としては、気がやさしく同級生からいやがらせを受けても抗えない娘が心配でなりません。病気が発覚し、自分に時間がないとわかってからはなおさらです。
一方で娘としては、何があっても学校に行けという母に対して、「なんでおかあちゃんはこんなにも厳しいのか」と少々理不尽に感じてしまいます。
少女が大人になる瞬間を見届ける母
安澄は高校生ですが、小柄で少し幼く見えます。冒頭、双葉が洗濯物を干しているシーンでは 安澄のものと思われるスポーツブラを手に取って「まだ大丈夫」とつぶやいているんですよね。でも、自分の病気がわかってすぐ、かわいいデザインの「ちゃんとした」ブラジャーとショーツのセットをプレゼントします。
母が娘のために選んだ、女性として生きていくためのアイテム。RPGで例えるなら、少しだけ「ちから」や「ぼうぎょ」を上げてくれる装備、といったところでしょう。この下着は、そのあとに安澄が勇気を振り絞るシーンで出てきます。
双葉は過去に母に捨てられ、児童養護施設で育ったと思われる描写が出てきます。私は、「もしかすると、双葉自身も子どものころに学校でつらいめにあったのかな…」と想像しました。それを乗り越えたからこそ、「強くて明るくて頼りになるおかあちゃん」になれたのかもしれません。そう考えると、安澄に対する心配や厳しさも理解できる気がします。
母に守られながら自力で立ち上がった娘
一方で安澄は劣等感を持つ女の子で、「私は最下層の人間だから」「自分はおかあちゃんとは違う」などと口にします。でも、心やさしくて銭湯の仕事をしっかり手伝うし、絵も上手です。双葉は、そんな安澄のことを信じているんですね。安澄には困難に立ち向かう力があると。
安澄は、ときには厳しい母に反発もしますが、しかしそんなときですら「母の愛情」をこれぽっちも疑っていないんですよね。双葉が安澄を信じているように、安澄も双葉を100%信頼しています。そして、たぶん憧れてもいます。学校に行きたくないといってもそれを許さない双葉のことを、誰よりもよく理解しています。
ここで「おかあちゃんは病気であと少しの命だから、自分で生きていけるようにがんばりなさい」などと言わないのが双葉のすごいところです。もしそういう展開にしてしまったら、この物語が一気に安っぽくなるところでした。
つらくても立ち上がり、双葉が買ってくれた下着だけの姿になってクラス中を黙らせたのは見事でした。おかあちゃんの加護を受けて、安澄は自分の力で道を切り開くことができたのです。
ひとつではない「母」と「娘」の物語
しっかりものの双葉に対し、夫の一浩はパチンコに行くといって1年も帰らなかったり、浮気相手から「あなたの子だ」と小学生の鮎子を押しつけたられたりと、いまいちパッとしません。しかし、双葉は一浩が連れてきた鮎子が本当に一浩の子なのかどうかもわからないまま、家族の一員として招き入れます。
娘としての双葉は、「必ず迎えにくるから」といって自分を置いていった母親をずっと待っています。双葉にとって鮎子は「幼いころの自分自身」にほかなりません。鮎子を抱きしめ、世話を焼くことで長年の傷が癒やされていったのではないでしょうか。
鮎子自身もまた、自分を置いて姿をくらました母親を思いながらも、双葉を「おかあちゃん」と呼んで慕うようになります。
同じヘアスタイルをして並んで歩く安澄と鮎子が、いつしか本当の姉妹に見えてきます。
安澄と安澄を生んだ母の邂逅
病気が静かに進行していくなかで、双葉は娘二人を連れてドライブ旅行に出かけます。旅先で病気のことを打ち明けるのだとばかり思っていたら、明らかにされたのは安澄の出生の秘密でした。
安澄は双葉の実の娘ではなく、一浩の前妻・君江が若くして生んだ子どもであること。君江は聴力に障害がありことばを話すこともできず、耐えきれずに安澄を置いて出ていってしまったこと。
物語の冒頭、「毎年4月25日に静岡からタカアシガニを送ってくる君江さん」が出てきます。そのお礼を書くのはいつも安澄の役目でした。
安澄が自分の娘ではないかと気づいた君江は、ホワイトボードを使って安澄に話しかけます。すると安澄は、手話でそれに返事をします。「なぜ手話ができるのか」と問いかける君江。安澄は、「母が、いつか役に立つから勉強しておきなさいって」と答えます。
安澄がすべてを知り、すべてを理解したこの場面は、「湯を沸かすほどの熱い愛」で私が一番好きなシーンです。真実を知った衝撃と、初めてわかった知られざる双葉の思い。いろいろな感情でぐちゃぐちゃになりつつも君江に向き合い、成長した姿を生みの母に見せた安澄は立派でした。
セリフのないシーンでありながら、表情と間で多くのことを表現した杉咲花の演技が本当にすばらしいです。
俳優陣の演技力という強固な土台がある
「病気で余命宣告された母が家族と向き合う」という内容は、映画のテーマとしてはそれほど珍しいものではありません。しかし、日常を描くヒューマンドラマだからこそ、感情の小さな揺れを表現し、観客を共感に引っ張り込む演技が重要になってきます。
この映画は、主演の宮沢りえは言わずもがな、助演で娘役の杉咲花、夫役のオダギリジョー、子役たちにいたるまで演技には文句のつけようがないのです。
杉咲花はこの映画で評判と知名度が急上昇しました。間違いなく今後の日本映画を引っ張っていく存在でしょう。
男性陣は少し影が薄い
双葉の夫で銭湯の店主でもある一浩は、気が弱い男です。旅先で倒れて入院した双葉を見舞う勇気すらありません。双葉が弱っていく姿が怖くて見たくないんでしょう。「こういう男、いるいる」と感じた人は多いんじゃないでしょうか。
それでも、「新婚旅行で行こうと言っていたエジプトに行きたい」と(冗談で)口にした双葉のために、木材でピラミッドを彫ってみたり、まわりの人を巻き込んで組み体操でピラミッドとスフィンクスを表現してみたりと、不器用なやさしさを見せています。
双葉と安澄と鮎子が旅先で出会う拓海(松坂桃李)は、自分探し中の若者です。行く当てもなくヒッチハイクをしていた彼に、双葉は「日本最北端へ行きなさい」とミッションを与えます。
拓海の父親は建設会社を営む資産家で、双葉の母が双葉を捨てたあとに結婚したのも建設業を営んでいるお金持ちなんですよね。もしかして同一人物?とも思いましたが、名字が異なるので別人でした。中野監督の中ではお金持ちイコール建設業なんでしょうか。
男性陣でいちばんよかったのは、双葉が雇う探偵・滝本(駿河太郎)です。仕事中も妻が命と引き換えに生んだ一人娘の真由をずっと連れています。真由が双葉に甘えるシーンには、なんともいえないあたたかさがありました。滝本はずっと、天国は遠いからママとはなかなか会えない、と真由に説明していたんですね。しかし、双葉が亡くなり、葬儀の日に真由に「ママとはもう会えない、嘘をついてゴメンな」と語りかけます。双葉はこの親子にとっても、「母」の面影を感じる存在だったのでしょう。
賛否両論のラストシーン
この映画のラストシーンはかなり衝撃的で、公開当時から物議をかもしました。素直に観れば「双葉の遺体を銭湯の薪窯で火葬し、その熱で沸かした風呂に家族で入る」というものです。
このシーンは、レビューなどを拝見すると「感動的」といった賛成意見と「ホラー」「ありえない」という否定的な意見とで真っ二つに分かれています。
しかし、少し考えると「そもそも薪釜では火葬ができない」という現実的な問題に突き当たります。
銭湯の薪窯で火葬ができない理由
まず、湯を沸かすための薪釜にご遺体をすっぽりと入れるのはサイズ的に無理です。どうしても火葬したいのであれば、火葬前に窯に入るサイズに解体する必要があります。
次に、あの窯の火力では、火葬場のように肉や内臓をすべて燃やして骨だけきれいに残した状態にするのは困難です。火葬場の炉内はだいたい1000℃くらいで、火力を調節し時間をかけて火葬していきます。火葬に立ち会った経験がある方なら、けっこうな待ち時間があることはご存じでしょう。この映画のような焼き方では、高い確率で炭化したご遺体が残ります。
さらに、動物を火葬するときにはものすごいにおいが出ます。ネズミなどの小動物を火葬するだけでもかなりのものなので、人間となればなおさらです。映画のように口を開けたままの窯で燃やせば、近隣住民から苦情が殺到することが予想されます。
ラストシーンの解釈を深めてみる
しかし、ここで「自分たちで火葬するなんて不可能、興ざめだ」とこの作品の評価を決めてしまうのは、もったいないことです。そこで、このシーンを自分なりに解釈してみました。
新しい家族の描写
最後のシーンで、湯につかっているのは安澄・鮎子・君江・一浩の4人。 拓海は番台に座り、そんな4人をほほえましげに見つめています。 このシーンで、君江のいるところは、本来なら双葉自身の居場所だったわけです。でも、もうその時間は過ぎ去ってしまいました。
これは、「新しい家族」をあらわしているのだと思います。君江と一浩が再婚するかどうかはさておき、これからも幸野家と君江の交流は続くでしょう。
双葉のなかに、君江に対する複雑な感情があるのは確かです。君江は安澄の実の母親であり、さらには「子を置き去りにした母」でもあるわけですから。
しかし、双葉は君江を招き入れました。これは「自分を捨てた母を許した」という意味にもとらえることができます。
双葉は血のつながらない安澄を「おかあちゃんの子」と言い、君江を家に招き入れました。この双葉の懐の深さ、愛情の濃さを物語の最後まで貫いているのが、多くの人に支持される理由でもあります。
家族を包む、冷めない「熱」となった双葉
病室で、自分にしか聞こえないように「死にたくない」と言った双葉。あれだけ愛しい家族を残して逝くことに、悔いが残らないはずがありません。
でも双葉は、自らがやるべきことをすべてやりきったのだと思います。エジプトには行けなかったけれど、大好きな人たちはそれ以上の風景を見せてくれました。
ここまで考察して、自宅で火葬をするシーンは「悔いはある、けれど家族と自分のために燃え尽きることができた」ということの、究極の表現ではないかと思い至りました。
今後、安澄や鮎子はおかあちゃんのいない人生を歩まなくてはなりません。おかあちゃんにはもう会えない。けれど、家族全員を包む「あったかいもの」になったのです。
天に昇っていく赤い煙は、双葉が天国へ行った証なのでしょう。
このラストシーンに驚いた人は多いと思います。しかし、どちらかといえば暗喩的な描写という意味合いが強いのではないでしょうか。 「火葬なんて不可能では」という現実的な問題を持ち出したり、「ホラー」のひと言で片づけるのは、野暮というものです。監督は、いくつもの意味を込めてこのラストシーンを描いたのだと感じました。
基本データ
湯を沸かすほどの熱い愛
監督・脚本:中野量太
劇場公開日:2016年10月29日
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